大沼家の起源は定かではありませんが、遡(さかのぼ)り得る先祖(法名:釈通清)の没年は、享保19(1734)年と伝わっています。次代傳作に子が無かったため、宝暦9(1759)年に村田郷内から養子が迎え入れられ、庄七と名乗りました。以降、当主は代々正(庄)七を襲名します。浄土真宗の門徒。屋号は「大沼屋」で、家印は 「やましょう」。
江戸時代、大沼家は全国各地で商業活動を展開しました。特に、18世紀末頃より周辺地域で産する紅花の集荷を開始し、京都や江戸の商人と紅花取引を行いました。単独の出荷に加え、山形の長谷川家(日本一の紅花商人)などと連携した共同出荷も実施しました。更に、紅花の代金で上方から仕入れた呉服、太物、古手(ふるて)、蝋(ろう)、荒物、砂糖や塩、薬種など様々な物資を販売し、そして貸付や質屋も兼業しました。
紅花の需要が衰退する明治期は、生糸取引に転向し、地主経営も拡大しました。大正期から昭和初期にかけては、味噌醤油の製造販売に力を入れました。特に、太平洋戦争前に製造販売した「マツヲソース」は好評を博しました。昭和14年(1939)年に6代目が没した後は醸造を停止し、在庫品を売り切った昭和17(1942)年に廃業しました。
大沼家は、商売で利益を得るだけでなく、凶作や飢饉、水害時における施米施金、また道路の補修などの社会慈善事業も行いました。そのため、人々から「温情地主」と呼ばれたということです。
大沼家の繁栄ぶりを伝える屋敷内の建造物は、その全てが平成10年に大沼家より町に寄贈され、「村田商人やましょう記念館」として開館しました。現在は、村田町村田伝統的建造物群保存地区の中心施設として、多くの人々に親しまれています。
江戸時代、紅花は仙南地方の特産品でした。現在村田町域となっている村田郷、足立、小泉、薄木、沼辺、沼田、関場、菅生の各村、そして、柴田郡内、岩沼、角田、亘理などで盛んに栽培されていました。18世紀初頭には、村田の商人は周辺農家で収穫された紅花を集荷し、主に上方へ、一部は江戸へ出荷しました。
紅花の輸送は、奥州街道などを使って人馬で運ぶ方法と、最上川及び日本海の航路を使って船で運ぶ方法が採られました。後者は、駄馬の背に載せて笹谷峠を越えて山形・大石田まで行き、荷を舟に積み替えて最上川を酒田湊まで運びます。そこから北前船に積み込み日本海へ出て、上方までは、一つは越前国敦賀から琵琶湖を経由する経路、もう一つは、関門海峡から瀬戸内海を経由する経路がありました。輸送に当たり、商人は状況を見て経路を適宜選択しましたが、上方との往来には、大量の荷物を安く運ぶことが可能な舟運を使用することが多かったようです。
当時、紅花は、着物の染料や口紅の原料として欠かせない農産物でした。この地方で採れた紅花は「南仙(なんせん)紅花」と呼ばれました。良質だったため、京都の紅花市場で、国内有数の紅花産地だった山形を上回る高値が付くようになりました。
19世紀には紅花取引が更に拡大し、山形の商人と連携した広域的な紅花の集荷が行われるようになりました。大沼家も、南部地方(黒沢尻)や奥仙地方(水沢)などに出張して、紅花の買い付けを行いました。幕府による文化・文政期の紅花商人(奥羽関東筋)に関する調査記録に、大沼正七の名が書き上げられており、全国でも知られた存在であったことがうかがえます。
紅花取引に関わった村田の商人は、大沼正七家の他、山田新五郎家、大沼正治郎家、大沼養之丞家、佐藤文三郎家、阿部屋平蔵家、山田専助家、大沼所左衛門家、大沼萬兵衛家(以上、本町(もとまち))、大沼十郎左衛門家、芦立屋喜右衛門家(以上、荒町)などが確認されています。