斜め向かいに屋敷を構えている、大沼正七家(村田商人やましょう記念館)の分家です。享保19年(1734)年頃までさかのぼる古い商家です。確実なところでは、安永7年(1778)の『本町西契約講帳』に「庄七」として記されています。江戸時代後期には、山形の豪商長谷川家と共同で紅花を商いました。村田を代表する豪商の一人で、紅花のほかに、木綿・古手・塩・蝋・米・大豆・薬種・呉服・味噌・醤油・金融など様々な商品を扱いました。紅花の取り引きは、明治20年代で終わりますが、その後は生糸へ転換するとともに、地主経営・株主ともなりました。代々、「正七」(庄七と表記することもあります)を襲名します。屋号は、「ヤマショウ」です。大沼正七家から分家した家は数家あります。
本家三代目大沼正七(直之)には、三輪という一人娘がいました。亘理の渡戸源助の三男、孫十郎を婿養子にし、その一人娘と婚姻させました。その二男の正十郎に、孫十郎という息子がおり、大沼正七は孫十郎(明治3年~昭和26年)を分家独立させました。その分家した年代については、はっきりしませんが、明治27年頃(1894)と推測されます。
大沼正七家の呉服部門を暖簾分けし、独立させました。同家の資料の中には、弘化3年(1846)の年号が書かれた張り紙のある仙台箪笥があります。これは分家する際に、本家の大沼正七家から譲られた物品かもしれません。
屋号の読みは「ヤマニ」で、帳簿や家の中で使う物品には「家万仁」という、お目出度い漢字を当てています。家紋は、三階松です。
呉服・反物・古着・金融を商い、初めは「大沼孫十郎呉服店」、後に「大沼呉服店」を名乗りました。同家には、商品を収納するための葛籠(つづら)が多く残っています。その中に長方形の葛籠があり、「行商部」という文言が入ったものがみられます。店頭売りだけではなく、行商も行っていたようです。昭和26年(1951)頃まで、呉服屋を営みました。2代目は、呉服屋を継ぎませんでした。
明治31年(1898)銘の「養蚕収入金年々調」という帳簿や、土蔵の中にしまわれた糸繰り機の存在から、一時期は養蚕を行い、繭から生糸を取っていたことがうかがえます。
屋敷地は、もともと本家である大沼正七家が所有し、後に大沼孫十郎に譲られました。明治22年(1889)の家相図を見ますと、店・主屋・文庫蔵・土蔵・板倉などが描かれています。間口は、ほぼ現在の間口の大きさになっていますが、南側の土地を買い足したような区画線が入っています。
現在の店蔵は、雛箱の銘文から、明治29年(1896)旧3月29日に上棟式を行い、大工は南町の小川銀右衛門です。主屋の建築年は不明ですが、明治時代頃と推測されます。
文庫蔵は、明治37年(1904)、さらに奥にある土蔵は、明治33年に(1900)に建てられました。これらのことから、明治29年から37年にかけて、家相図に描かれていた建物の、建て直しが集中的に行われたことがわかります。
本家と同じ、浄土真宗大谷派・信樂山願勝寺の檀家です。同家の親鸞書(写真版)の横額には、「大正十五年二月二日、仙台求道会に於いて近角常観から拝受」(1926)するという墨書がみられます。近角常観というのは、真宗大谷派の僧侶で、明治から戦前にかけて、東京求道学舎と求道会館において、浄土真宗の普及に活躍した人物です。これによって、同家は本家とともに浄土真宗の熱心な信者だったことがうかがえます。主屋の神棚には、天照皇大神や松川達磨などが祀られています。
空いていた店蔵は、昭和43年(1968)から10年ほど家具屋へ貸していました。最後に住んでいた大沼としを氏のご遺族から、平成19年(2007)?に土地・建物が村田町へ寄贈されました。それを受けて、平成20年(2008)に観光施設「ヤマニ邸」となり、村田町観光案内所が置かれました。平成23年(2011)3月11日の東日本大震災で、大きな被害を受けましたが、修理されました。しかし、令和3年(2021)2月13日の強い地震により、再び被害を受け、現在復旧修理工事が行われています。